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[WEB連載コラム]第19回 ブルー・アイランド氏がやりたかったこと(文と絵 青島広志)
幼い頃から、上野という町は何とも不思議だった。住んでいた駒込は住宅地で、いわゆる繁華街はない。最も近い盛り場と言えば国電※の山手線で3駅目の池袋で、ここは当時のB(ブルー・アイランド=青島)にはかなり猥雑(わいざつ)な感じがした。特に西口がそうだった。逆に進むと4駅目(まだ西日暮里駅は存在していない)が上野だったが、この駅は坂の斜面に沿って建てられていて、その上の出口は公園口と呼ばれる。こちらは広大な公園が広がり、いくつもの公共施設が点在している。最も古い記憶は動物園で、ペンギン舎の前で写した写真があるが、その前後の記憶は途切れている。坂下の出口は広小路口と言うらしいが、むしろ通称のアメ横口で通っていた。 初めて東京文化会館に行ったのは、音楽家になる人間としてはかなり遅く、小学4年生の時だったと思う。クラスで歌の上手い少女が入っていた合唱団の演奏を聴きに小ホールへ行ったのだ。何人かで行ったので、帰りに食事をしようということになり、暮れなずむ空を見ながら坂を降りていった。すると最後の階段の辺り、ちょうど西郷さんの銅像の下に、何人もの似顔絵描きが画架(がか)を立ててたむろしていたのである。口髭を貯えてベレー帽をかぶっている人もいた。宣伝のためか既に描かれた絵が何枚も貼り出してある。残念ながら描いてもらっている人は誰も居なかった。似顔絵と言うと、当時は映画館の看板がその代表だったが、それよりはずっと上手いと思った。顔の各パーツのデッサンが正確なのである。そして急いで描いている割には線に乱れがなく、専門の勉強をしていることがよくわかった。 後に知ったところによれば、東京藝術大学の学生たちがアルバイトにやっているとのこと。こうした場所は怖い人たちが場所代を取り立てることも聞いていたので、危険な商売だとは思ったが、自分の芸でお金を取れるのだから幸せだとも感じた。そして何より彼らは聖なる場所である公園側から世俗世界へ降りていく最後の関門だったのである。ただ似顔絵は純粋な肖像画というわけでもなく、そこにはモデルにおもねる卑屈さも見て取れるのだが、美術館入りしている作品にもそういう部分は確かにある。超越しているのは一人、レオナルド・ダ・ヴィンチだけではないか。 少しは絵を嗜(たしな)む者として、全く興味がないわけでもないが、この技術では仕事にするのは無理というものだ。それに時たま雑誌などに投稿されるBの似顔絵は、かなり悪意を持って描かれているような気がするのだが。 ※日本国有鉄道(国鉄)の電車で、大都市周辺で運転された近距離専用電車または近距離専用電車線。東京の山手線や大阪の大阪環状線がその代表例。 |
東京藝術大学講師。オペラや合唱など作曲した作品は300曲を超える。ピアニスト、指揮者としての活動も49年を迎え、コンサートやイベントもプロデュース。「題名のない音楽会」「世界一受けたい授業」などに出演している。
荻窪センターでは毎月1回、「音楽作品のバラエティ 作曲の師弟関係をさぐる」を開講中。小野勉の模範演唱に加え、青島広志のピアノ独奏も、滅多に聞けないプレゼントとなるでしょう。1月期最終回の3/3は以下の予定です。 林 光~青島広志 |
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(情報誌「よみカル」2017秋号~2019冬号に掲載。2020年春からWEB掲載)
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